ドル千尋の文字流し

こんにちは。ドル千尋です。アイコン変えました。

最期を考える。いや、考えた方がいい。

こんにちは。ドル千尋です。

今日は雪の予報で電車も計画運休などと言っていましたが今のところみぞれです。
雪景色は綺麗で好きですが、降りやんだあとに凍って歩きにくくなるところが嫌ですね。
日本は人間が定住している土地の中で世界で一番雪深いと聞いたことがあります。
そりゃ3mも雪が積もるところに住もうとは思いませんよね。
私は生まれてこの方関東で過ごしてきたので雪がイベントごとのように感じてしまいますが、日本海側の方々は一体どのようにして雪と付き合っているのでしょうか。雪深い地域の人、すご。

風流すぎる導入はこれくらいにして。

私が生まれてから24年ほど、「死」というものからかなり距離を取って生きているのではないかと思います。
それゆえ「命あるものは最期には死んでしまう」という大前提をあまり意識せずに生きてきましたが、昨日SNSで『死期の近い猫ちゃんに延命治療をせずに自宅で看取る』という漫画を読み、「生」と「死」について強く意識させられました。

私にも数少ないながら大切に思う人がいます。
その人たちはそれぞれ今を生きています。でも最後には死ぬ。これから世界がどんな風に発展していくのか、衰退していくのかはわかりませんが、最後には死ぬ。それだけはわかっています。

その最後には死ぬというところに関して、判断を仰がれたらみなさんはどうしますか。
いわゆる「延命措置」をするかどうかということです。
私の母親は常々「しなくていい、臓器提供でもなんでもしてくれていい」と言っています。
でも、もしその状況になったとき私は私の判断で母親を殺すことができるのかと問われると考えてしまいます。

病床に伏せる母親を見ることができるのか。思い出の中の母親を見てしまわないか。
戻ってきてほしいからと目の前で何もできずに苦しむだけの母親を生かしてしまわないか。
また母親も、そうは言ったもののどんな状態でも生きたいと思っていないか。死を目前にして生に縋りたいと思ってはいないか。

。。。すべてそのときになってみないとわからないことですね。
でも、いつか本当に決断を迫られる時が来るかもしれないですから、家族で最期を想像して語り合う場を設けることももしかしたら大切かもしれないですね。まだ死を冗談として言えるくらい元気なうちに。
こんなご時世なのであまり会えないですが連絡はこまめに取ろうと思います。


「最期はどうする??」子からこんなメッセージ来るの、嫌だな。

あ、母親は健在です。勝手に最期を想像していただけですので悪しからず。
それでは、また。さようなら。